年譜

1853年3月30日 オランダ南部ズンデルトで誕生。
    幼少期から変わり者として、周りに受け入れられなかった彼は、両親にも理解されなかった。
1869年 16歳で美術商グーピル商会に就職し、ロンドン、パリ支店で働く。
    20歳 失恋を機に自分をコントロールできない自我が放出。勤務態度が悪くなる。
1876年 23歳 グーピル商会を解雇され、オランダに戻り教師となる。
1878年 25歳 伝道師養成所に通うが、資格を得られずにボリナージュで宣教師見習いとして活動する。
     しかし熱心すぎる彼のやり方を伝道委員会は快く思わず、彼は解雇される。

   オランダ時代-----------------
1880年 27歳 画家になることを決意。
    貧しい生活が続き、弟テオに苦しみを訴える。テオからの仕送りが始まる。
1881年 農村生活を主題としたバルビゾン派のミレーやイスラエルに憧れる
    街の景観や労働にいそしむ人々を主題に技量を磨く
1883年 30歳 同棲していた女性との関係を清算し、ニューネンの両親のもとに戻る。
1884年 援助の見返りに、テオに作品を送り始める。
1885年 32歳 父親が急死。代表作『じゃがいもを食べる人たち』を制作。


   パリ時代----------------------
1886年3月 33歳 パリへ移り、弟テオのアパルトマンに同居。
     印象派(ルノワール、モネ、ピサロ)新印象派(リュス)に触発され、
     明るい色彩と生き生きした筆遣いを学ぶ
     また、浮世絵の大胆な色彩と印象的な構図に強く惹かれる
1887年12月 34歳 パリ生活に疲れ、しだいに精神に異常をきたす


   アルル時代-------------------------------
1888年2月  35歳 南フランスのアルルへ移り、絵を描くことに没頭。
1888年12月 ゴーギャンとの口論の末、自分の左耳を切除
1889年1月  『耳を切った自画像』を制作。
1890年5月  37歳 自らサン=レミの療養所に入院。
1890年5月  オーヴェール=シュル=オワーズに移り、医師ガシェと親しくなる。
    7月27日 拳銃自殺を図る
    7月29日、37歳で死去。 

  


  10年間の画家人生で描いた作品は約2000点、約800通もの手紙を書いた。
 ---- 生前唯一売れた作品「赤い葡萄畑」 400フラン
 死後----------------
   「花瓶の立葵」 1100フランで売却
    1901年(死後11年) 世界各地で大規模展覧会。作品が評価され始める
   「花瓶の14輪の向日葵」 3990万ドルで落札
   「アイリス」 5390万ドルで落札
   「医師ガシェの肖像」 8250万ドルで落札


年代別作品 オランダ時代

影響を受けた画家

 バルビゾン派のジャン=フランソワ・ミレー、ヨーゼフ・イスラエル
 ゴッホは1883年の12月より、両親が暮らすオランダのニューネンに引っ越し、 翌年より精力的に農民を主題にした作品を描き始めます。これは、農民画家と呼ばれた フランソワ・ミレーを心から尊敬し、強いインスピレーションを受けていたためです。
ジャン=フランソワ・ミレー 「グリュシー村のはずれ」
ヨーゼフ・イスラエル 「ユダヤ人の写本筆記者」



1881 麦わら帽子のある静物(1881/11月)***オランダ時代



1882 大工の仕事と洗濯場

 様々な色合いの茶色で描かれたこの素描は、質素な家々を背景に、賑やかな大工の仕事場のようすを描いている。 手前には洗濯物が干された物干しロープが目立ち、大工仕事の中で繰り広げられる日々の暮らしを垣間見ることができる。 場面全体に散りばめられた複数の人物は、それぞれの作業に勤しんでおり、作品に活気と生活感を与えている。

1884 刈り込んだ柳のある風景(1884/4月)


   ジャガイモの植え付け(1884/9月)


   白い帽子をかぶった女の頭部

女性は顔を少し左に向けており、まじめな表情をしています。肌は日焼けして荒れており、目は暗く強烈です。 背景は暗くてぼんやりとしており、鑑賞者の視線を女性の顔にひきつけます。

1885 ジャガイモを食べる人々(1885/4月)

 この時代のゴッホ作品は、暗い色調が特徴で、これだけの人物を一画面に描いたのも、風景画を除けば本作のみです。
 作中では、激しい労働後の農民たちが、ジャガイモとコーヒーだけの貧しい夕食をとると言う、ありのままの姿が描かれています。
 ゴッホが弟に宛てた手紙によれば、本作のテーマは「手の労働」であり、農民が土を掘ったその手でジャガイモを食べていると いう点を、強く表現したかったそうです。ジャガイモを掘って土汚れした農民の手は、文字通り非常に泥臭く描写されています


   ニューネンの牧師館(1885年)

 30歳のゴッホはニューネンの実家に戻る。父との衝突は絶えなかったが、それでも身近な実家や父の勤める教会を 描くことで、自らが置かれた環境を見つめようとした。

 弟テオへの手紙
 「人生には、周りの世間が取っておいてくれた地位に押し込まれるよりは、たとえそれがどんなにきついものであろうと、 一撃を受けたほうがいいという瞬間があると思う。」(1883年)

   田舎家と帰宅した農夫(1885/7月)


   ジャガイモを掘り出す農婦(1885/8月)


   青い服を着た女性の肖像(1885/12月)


   火のついたタバコをくわえた骸骨(1885/冬)



年代別作品 パリ時代

 影響を受けた画家

 印象派 ルノワール、モネ、ピサロ
 新印象派 リュス
 浮世絵 歌川広重
 浮世絵の影響を受けたモネの作品

ルノワール 「カフェにて」
モネ 「モネのアトリエ舟」



ピサロ 「虹 ポントワース」
リュス 「モンマルトルからの眺め」



歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
「名所江戸百景 亀戸梅屋敷」



浮世絵の影響 モネ「ラ ジャポネーズ」
モネ 「ポプラ並木」



モネ 「シベルニーの日本の橋と睡蓮の池」




1886 ブリュット・ファンの風車(1886年夏)***パリ時代

画家H.M.リヴェンズへの手紙
 「それにねぇ、パリはやっぱりパリだよ。パリは一つしかない。ここでの生活がいかにきつかろうと、たとえそれがもっとひどくなり、 もっとつらくなろうと、フランスの空気は頭脳をすっきりさせてくれるし、ためになるものがある。とてもいい効果がある。」(1886年)

   女性トルソーの石膏像(1886年春)


   モンマルトルの丘



   自画像の素描

 10年ほどの画業の中で、パリに移住して以降約38点の自画像を描き残した。印象派や浮世絵との出会いによる意識や 画風の変化のほかに、彼がモデルを雇う金がなかったために、手っ取り早く自信を描くことにしたこと。また自画像を描くことで 他人の肖像画を上手く描けるようになるための習作という理由がある。

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   パイプをくわえた自画像(1886年春)

 1886年春、テオと同居するためにパリに移り住みます。パリは芸術の都の最盛期。まばゆいばかりに映り、暮らし始めた 当時は胸踊るような興奮を抑えることができません。  当時一般に人物画の制作でよく使われていた暗い色が使われ、まだゴッホらしさは表れていません。ゴッホの姿からは どこかゆとりのある雰囲気が伝わってきます。

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   ガラスの自画像(1887/1月)

 ワインのようなものが入ったグラスを持っています。パリに出てきたゴッホはバーに通い、お酒を飲むのが 習慣でした(飲みすぎの自覚あり)。  X線検査で、裸婦のスケッチの上に描かれていることが分かっています。

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   自画像(1887/4月)

 自分は人物画のモデルとして最も身近な存在であり、「辛抱強く最後まで付き合ってくれるモデル」であったのです。
 自分をモデルにして人物画の技法を磨こうとしたことが、数多くの自画像を残す要因となった。

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   麦わら帽子の自画像(1887/夏)

 金銭的な理由などで、モデルを雇えなかったゴッホは、2年間のパリ時代(1886年-1888年初頭)に多くの 自画像を描きました。彼の自画像は、その時の彼の画風と精神状態を明確に示しています。
 パリ時代のゴッホは、比較的幸せだったとされており、暗い色彩が多い自画像の中でも、1887年の夏に 制作された本作は、一際明るくダイナミックなタッチで描かれています。使っている色も黄色を基調とした 明るい色が使われています。

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   グレーのフェルト帽をかぶった自画像(1887/冬)

 1887年後半になると再びスーツに身を包んだ自画像に変化。使っている色も青やグレーなど地味な色に変わっています。 こうした変化からは、パリにおける自身のアイデンティティの確立に悩んでいたゴッホの姿が浮かび上がってきます。
 フェルト帽をかぶり、こざっぱりしたスーツを着た自画像は、最もおしゃれをしたもので、しっかり正面を向いている のが特徴です。パリという大都会の影響を受けていることが分かります。

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   モンマルトルの野菜園(1887/2月)

 大部分が空。空疎、空虚、そして風車の郷愁。パリの北端、花の都の喧騒から少し離れた丘の上。 そこにあったのは、街ではなく風車と畑。ゴッホはこの場所を好んだ。華やかな都会に背を向け、 風の抜ける土のにおいに惹かれていた。
 風車は回っているようで、止まっている。動きがなくても、時間が流れている。その静けさのなかに、 故郷オランダの影がうっすら重なる。見ているのはモンマルトル、心のなかにはオランダの風が吹いている。
 華やかさに背を向けた男の誠実さ。それが筆に宿る。ひねくれ者だが、自分の好きなことに誠実。 だからゴッホはゴッホになれた。

   石膏像のある静物



   草の中に座る女性



1887 タンギー爺さん(1887年秋 背景に浮世絵の影響)

 肖像画のモデル「ジュリアン・フランソワ・タンギー(タンギー爺さん)」は、 ゴッホがパリ時代に利用していた画材屋の主人です。
タンギー爺さんの店には、セザンヌ、ゴーギャン、モネ、ルノワールなど、当時 まだ無名だった印象派画家たちが数多く訪れていました。ゴッホもこの店主を通じて、 ゴーギャンと出会いました。金銭的余裕がなかったゴッホら画家たちは、店側の好意で、 作品と引き換えに、画材を提供してもらっていました。
 作中の背景には、ゴッホが影響を受けていた日本の浮世絵がびっしりと6枚も描かれています。 この時期のフランスは、万国博覧会の影響もあり、日本趣味(ジャポニズム)が流行していま した。ゴッホも、日本の浮世絵の版画や切り絵を何百枚も収拾し、作品に部分的に取り入れていました。
 本作は、モデルの温厚で面倒見の良い人柄を表す様に、全体的に穏やかで明るい色合いに仕上げら れています。タンギー爺さんの肖像画を、ゴッホは全部で3枚製作しており、その中で一番後に手がけた のが本作になります。

   花魁(おいらん)

 ゴッホが浮世絵に出会ったのは、1885年にベルギーのアントワープに暮らしていた時の事です。
浮世絵の大胆な構図や、明るい配色に強いインスピレーションを受けたゴッホは、当時パリで安価で 購入する事ができた、浮世絵の版画を数百点も集めました。
 本作も、江戸時代後期に活躍した日本の浮世絵師「渓斎英泉」が手がけた「雲龍打掛の花魁」の 模写ですが、明るい色彩や背景などは、ゴッホなりのアレンジが加えられています。
 1887年頃のゴッホは、日本の美しい景観に憧れ、本作をはじめとする浮世絵の模写作品を数点手掛けて います。そして、これ以後のゴッホは、印象派の作風から離れ、日本画の力強い輪郭線や強烈な色彩を 作品に取り入れ、独自の作風を確立していきました。
 この時期に日本画のエッセンスを取り入れた事で、ゴッホの才能が開花したと言っても過言ではありません。

   アルルの跳ね橋(ラングロワ橋)

 本作は、南仏アルルにある「ラングロワ橋」の春の景観を描いた作品で、ゴッホはこの橋の景観を気に入り、 様々な角度からラングロワ橋を描いています。
 オランダやパリでは見られなかった、この地の陽気で明るい風景に感動し、ゴッホの描く絵画の色合いも、 一層強く明るくなっていきました。弟テオへの手紙でも、この地の風景の素晴らしさを、熱く語っています。 橋や土の鮮やかな黄色と、空や水の澄んだ青色は、まるで希望に満ちたこの時のゴッホの心を投影している様です。 橋の上には馬車、中央には洗濯女の姿も描かれています。
 現在の所蔵美術館の創設者である「ヘレーネ・クレーラ・ミュラー」は、1914年に200ギルダー以上の資金を かけて、32点ものゴッホ作品をオークションで購入しました。本作はその中の最高傑作とされる一点です。
 残念ながら「ラングロワ橋」は、1930年に別のコンクリート橋に置き換えられ、現在は見る事はできません。

年代別作品 アルル時代

1888 黄色い家***アルル時代

 芸術家達との共同生活を夢見てアルルに移住したゴッホは、ラマルティーヌ広場に面した家に2部屋を借りて 生活を開始します。アルルの陽光あふれる景色は、ゴッホが浮世絵を見て理想とした日本の風景そのものだった そうです。
 本作はその住居の外観を描いたもので、「黄色い家」と言う名で広く知られています。残念ながらこの家は、 第二次世界大戦中の爆撃で破壊され、現在は残っていません。
 ゴッホは、向かって左奥に描かれたレストランで頻繁に食事をしていたそうです。また、右奥に描かれている のは鉄道橋で、その先には知人で郵便配達人の「ジョゼフ・ルーラン」も住んでいました。

   グラスに入れた花咲くアーモンドの枝と本(1888/3月)
 自然が持つシンプルな美しさに対する魅力を私たちに垣間見せてくれる作品です。わずか縦19センチ、 横24センチという小品ながらも魅惑的なこの絵は、水の入ったグラスに丁寧に挿された、花開くアーモンドの枝の 繊細なディテールへと私たちの視線を誘います。
 画家がどのようにしてグラスの透明感を捉え、枝の水中に沈んだ部分を表現しているかに注目してください。 その横には、ピンク色の表紙と黄ばんだページを持つ閉じた本が置かれ、まるでこれから読まれるのを待っている かのようです。水平線によって微妙に分割された、落ち着いた緑色の背景は、繊細な花をさらに際立たせる、 穏やかな背景を提供しています。  光と影を巧みに操るゴッホの卓越した技術によって、この静物画に命が吹き込まれています。 柔らかく拡散された光がアーモンドの花を照らし、その繊細な白とピンクの花びらを強調しています。 グラスと本によって落とされた優しい影は、構図に奥行きと立体感を与えています。
 この魅力的な静物画は、私たちに時を止め、儚い自然の美しさや、ある一瞬に閉じ込められた静かな 喜びに感謝するよう促しているかのようです。

=⇒ 花咲くアーモンドの木の枝

   夕暮れの柳(1888年秋)

 ゴッホの目を通して、束の間の黄昏時の美しさを体験させてくれます。現在、オッテルローのクレラー=ミュラー 美術館に所蔵されている、比較的小さな厚紙に油彩で描かれたこの作品(32x34cm)は、見る者を魅了する力強さを 秘めています。
 燦燦と輝く空を背に、シルエットが暗くなった柳の木々が、前景を圧倒しています。彼の特徴である、 厚く渦を巻くような筆使いで描かれた枝は、まるで踊り、のたうち、輝く太陽に向かって伸びているかのようです。 空もまた、燃えるようなオレンジ色と黄色が、深い赤色と冷たい青色に溶け込み、奥行きと動きを感じさせる 色彩のシンフォニーを奏でています。
 絵の具を厚く塗り重ねるインパスト技法により、キャンバスの表面に凹凸が生まれ、まるで画家の筆の動きを 感じることができるようです。このテクニックと、色彩の表現力豊かな使い方、大胆な筆遣いが相まって、 生の感情的なエネルギーが作品に吹き込まれています。「夕暮れの柳」は、単なる風景画ではありません。 ゴッホの魂を覗く窓です。自然との深いつながりと、日常の中に美を見出す彼の能力を反映しています。

   夜のカフェ

 かつてゴッホが住んでいた建物の一階にある「カフェ・ド・ラ・ガール」の店内を描いた作品。
 天井は緑、壁は赤、床は黄色でだいたんに描かれています。
 ゴッホは、弟への手紙で本作を《カフェとは人が身を持ち崩し、気が狂ったり、犯罪をおかす可能性が あるところだ。その人間の恐ろしい情熱を赤と緑で表現しようと努めた》と記しています。
 ゴッホが本作より後に手がけた《休息》がテーマの「アルルの寝室」とは対作品であると考えられています。

   夜のカフェテラス(1888/9月)

 アルル中心部の広場にあるカフェテラスを描いた作品。青、紫、緑色で描いた夜景と、ガス灯の黄色い光が うみ出す美しいコントラストが見るものを引きつけます。
 ゴッホは弟への手紙で、夜は昼よりも、生き生きと彩られると記しており、1888年以降は、夜を題材にし作品を度々 描く様になります。この時代に夜景を描く際は、夜にスケッチを行い、昼に室内で仕上げるのが基本でしたが、ゴッホは蝋燭の火をたよりに、 その場で本作を仕上げていたそうです。本作は、ゴッホ自身が記している様に、夜空に一切の黒色が使用されていません。
 ゴッホはこの頃から、従来の印象派的絵画から脱却し、彼独自の色彩表現を開花していきました。
 『夜のカフェテラス』の最も印象的な特徴は、その鮮やかな色彩、特にカフェの黄色と夜空の深い青との 強烈な対比です。ゴッホは、伝統的な夜景画のように黒を多用せず、色彩そのもので夜の光と影を表現しようと試みました。
 黄色と青は「補色」の関係にあり、隣り合わせに配置することで互いの色をより鮮やかに見せる効果があります。 ゴッホはこの色彩理論を意識的に用い、カフェのガス灯の暖かな光と、夜空の神秘的な深さを劇的に描き出しました。 カフェの壁や日よけの黄色、地面に反射する光の暖色系と、空や建物の影に使われた寒色系の対比は、観る者に強い 視覚的インパクトを与えます。
 また、カフェの内部やテラスの床には、緑やオレンジといった色も巧みに配置され、画面全体にリズムと活気を もたらしています。色彩心理の観点から見ると、黄色は幸福感や活力を、青は静けさや深遠さを象徴するとも言われ、 この作品が持つ独特の情感を生み出す要因の一つと考えられます。

   赤い葡萄畑

 ゴーギャンとの共同生活中に描いた、この「赤いぶどう園」は、ゴッホの生前中に売れたのが明らかな唯一の作品です。 ゴッホの友人の姉で画家の「アンナ・ボック」が、1890年1月にベルギーのブリュッセルで開催された展覧会にて本作を 400フランで購入しました。10年間の芸術家人生で、ゴッホは約800点もの油絵を描きましたが、生前に売れたのは本作だけです。 作中では、ゴッホ作品の原点である農作業(葡萄の収穫)風景が描かれ、同年10月には対作品として「緑のぶどう園」も手掛けています。

   イーゼルの前の自画像(1888/1月)(画家としての自画像)

 パリでは絵の教室にも通い他の画家とも交流ができました。またジャポニズムが広まったのもこの頃。ゴッホの絵にも明らかに 日本画の影響がみられます。
 画家としての自信あふれる姿を描いたのが1888年1月に制作した右手にパレットと筆を持った自画像です。 この絵では、ゴッホはもうおしゃれをしていません。パリの労働者が着る青い作業服を着ています。若いころから労働者や農民に 同情を示し、ブルジョアを嫌っていたゴッホが自分の立場をしっかりと示した作品だと言えるかもしれません。
 パレットと筆を持ちイーゼルの前に立った構成は、レンブラントの自画像を模したものだと考えられています。それほど、 この時点でゴッホは、画家としての自信を持つようになっていたのではないでしょうか。
 技法的には、タッチが安定するようになっていることが観察でき、このことからも画家としての落ち着きを感じ取ることができます。  ところがその一方で、ゴッホは大都会の雰囲気になじめない自分を見出し、パリの生活にだんだん嫌気がさすようになっていきました。  パリでモデルになってくれる人を見つけることは大変難しく、しかも街の通りにキャンバスを持ちだして絵を描くことも禁じられてい ました。こうした不便な環境に対しゴッホの持ち前の気性の激しさが爆発し、ゴッホはパリが嫌いになっていきます。

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   種をまく人(1888/6月)

 ゴッホは、敬愛するミレーの作品を数多く模写していますが、その中でもこの「種をまく人」は、特に ゴッホのお気に入りでした。
 作中の人物のポーズは、ミレーのオリジナルのままですが、大きさは縮小され、配置も中央から右上へ と移動しています。更にオリジナルの穏やかな風景は、青やオレンジが大半を占める明るい配色に変更され、 全体的に激しいタッチで描かれています。
 特に黄色に照りつける太陽の存在感は圧倒的で、まるでゴッホの代表作「ひまわり」の花を見ている様です。  ミレーは単に働く人々のありのままの姿を描きましたが、かつて聖職者を目指していたゴッホは 《種をまく人=神の言葉を種まく人》と言った風に宗教的な意味合いを込めて本作を描きました。

   収穫(1888/6月)

 6月アルルの小麦畑は収穫を迎える。黄金色に輝く畑を描こうとゴッホは毎日のように足を運んだ。
 青い空のもとに広がる畑、彼方にはアルピーヌ山脈が描かれる。無数に連ねられる細長い筆致と鮮やかな色彩。ゴッホは おのれの画風をアルルの地で爆発的に開花させた。

 画家 安野光雅
 「ゴッホはほとんど無自覚のうちに、写実を超えたんだと思う。確たる自分の要素、自分の視点を持ち、様式に縛られず、 人にどう思われるかも気にせず、自分の信じる道を進んだ。その結果彼の絵は写実から、自然に自分らしい個性を携えた、 いわば抽象へと向かったのだと思います。」

   ローヌ川の星月夜(1888/9月)

 フランス南東部を流れる全長 812kmの「ローヌ川」。そこに映る、星や街灯、川面の反射をゴッホらしい 黄色と青色で表現したのが本作です。
 黒色を用いずに表現した夜空には、北斗七星が輝き、腕を組んで歩くカップルと共に、ロマンティックな 雰囲気を演出しています。
 左岸に見えるのは、ゴッホが暮らしていたアルルの街ですが、実際はこの方角から、北斗七星を見ることは できないので、本作はいくつかの実景を組み合わせて構成されています。

 弟テオへの手紙
 「僕はすごく宗教---こういう言葉で言っていいものか---の必要を感じている。そこで僕は夜、星を描きに 外へ出て行って、仲間たちの一群の生きた人物像もあるそうした絵をいつも夢想する。」(1888年)

   自画像(1888年9月 アルル)

 ゴーギャンに送った作品です。ゴーギャンはゴッホの共同アトリエへの呼びかけを受け入れてくれた画家でしたが、 実際にゴーギャンがアルルに到着するまでにゴッホは3ヶ月も待たなければいけませんでした。
 この自画像はそのゴーギャンを待っているときに制作し送り届けた作品です。青を背景として茶褐色のスーツを着た ゴッホが描かれています。きちんとした服装はゴーギャンへの尊敬の念を示していると考えられますが、それに比して 頭は坊主頭、顔の表情はうつろで暗い。
 ゴッホはこの絵をゴーギャンに送ることで、待つことに疲れた自分の気持ちを伝えたかったのではないでしょうか。 「早く来てほしい」、そんな思いが伝わってきます。

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   ゴッホの寝室(1888/10月)

 本作は、ゴッホが画家同士の共同生活をするために借りた「黄色い家」の寝室を描いた作品です。
 作中に描かれた家具などは、ゴッホ自身が揃えたもので、枕、画中画(絵画)、椅子、窓などが全てペアになって います。これには、ゴーギャンの到着を待ちわびるゴッホの強い想いが込められています。
 ゴッホは本作を通して、究極の休息を表現したかったそうです。明るい黄色をアクセントに、くっきりした 輪郭線と、やや歪んだアングルが、非常に特徴的な作品です。
 ゴッホは、全く同じ構図で、3枚の「アルルの寝室」を描いており、本作は後年1889年に描いた方の複製版です。
 1889年は、ゴッホがサン・レミの病院に入院していた時期で、心が病み、発作に苦しんでいました。 一方で、オリジナルの「アルルの寝室」は、1888年のゴッホが希望に満ち溢れていた時期の作品で、 同じ構図でも、ゴッホの心情は天と地ほど違っています。
 現在、1888年に描かれたオリジナルは「ゴッホ美術館」が、もう一枚の複製版は「シカゴ美術館」が所蔵。

   ひまわり(15本 ロンドン・ナショナル・ギャラリー版)

 パリでの生活が耐え難くなった1888年2月、ゴッホは南仏のアルルに移り、画家同士で暮らすコロニー(生活共同体)を計画していました。 そしてまずは、パリで親交のあった画家「ゴーギャン」を迎えるため、共同生活の拠点である「黄色い家」の寝室を 「ひまわり」の絵画で埋め尽くそうと考えました。
 残念ながら、ゴーギャンとは喧嘩別れとなり、画家同士の共同生活も夢に終わりますが、ゴッホはこの時に「ひまわり」を 4点制作しました。
 更にゴーギャンが去った後も、3点のひまわりを製作し、アルル時代だけで、合計7点(うち1点は焼失)もの、 異なる「ひまわり」を描きました。7点とも構図はほぼ同様ですが、ひまわりの本数が、3本、5本、12本、15本の 4バージョンに分かれており、色合いも微妙に違っています。
 現存する6点の「ひまわり」の中で、最高傑作と評されるのが、4作目として描かれた、ロンドンナショナルギャラリー 所蔵の「ひまわり」です。このロンドン版の「ひまわり」は、少し抑えめの黄色が特徴で、15本の花が描かれています。 15本と言う数は、共同生活に集まるはずだった画家達を12使徒に見立て、そこに、ゴッホ、弟のテオ、ゴーギャンの3人を 加えた15人を示していると言われています。
 参考までに、アルルで5作目に描かれた「ひまわり」は、1987年に日本の損保ジャパンが、58億円にて落札しました。 「SOMPO美術館(新宿)」に足を運べば、いつでも鑑賞可能です。

   ひまわり(15本 SOMPO美術館)

 画面のすみずみまで満ちる黄色の空気。ロンドン版ほど硬質に光らず、どこかやわらかな黄緑の気配が漂います。 花の中心には赤や橙が小さく燃え、葉はところどころ緑が勝つ。
 東京・SOMPO美術館の《十五輪》は、同系色で包み込む“黄の設計”を保ちながら、色調のゆらぎと筆触のスピードが 生む“呼吸感”が魅力の一枚です。

   ひまわり(12本 フィラデルフィア美術館)
   ひまわり(15本 ゴッホ美術館)

1889   包帯をしてパイプをくわえた自画像(1889/1月)

 本作は、アルルの黄色い家での「耳きり事件」の後に描かれた肖像画です。理由は定かではありませんが、 ゴッホは切り落とした耳を馴染みの女性に届けたとされ、この時期の精神の不安定さがうかがえます。
 本作は、オレンジと赤でくっきりと二分化された背景がかなり印象的ですが、青の帽子や、緑のコートと 絶妙のカラーバランスを保って描かれています。ゴッホはこの様な補色(反対色)の組み合わせを好んで 使用していました。作中のゴッホの右耳付近から顎にかけては、生々しい包帯が巻かれ、目の焦点はやや 合ってない様に見えます。
 ゴッホは、自殺する前年(1889年)に6枚の肖像画を残していますが、本作はその中の最初の1枚です。 同月に描いた肖像画も、本作と似た様な構図で描かれていますが、パイプは加えず、日本の浮世絵を背景にしています。

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   頭に包帯をした自画像(1889年1月 アルル)

 耳を切り落とし包帯を巻いた姿を描いたものです。ゴーギャンと口論になり自分の耳を剃刀で切り落とすという すさまじい事件だったにもかかわらず、自画像の中のゴッホはどこか穏やかな表情をしています。
この絵には背景に浮世絵らしきものまで登場。どこかに余裕さえ感じさせられる不思議な絵です。
 一説では耳を切り落としたのはゴーギャンで、ゴッホは彼をかばって自分で切ったと言明したとも。 もしそうだとしたら、ゴーギャンをかばったという自負がこのようなゆとりを感じさせる作品に繋がっていった のかもしれません。ちなみにゴッホはこの事件については一切語っていないそうです。

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   病室のフィンセントの画室の窓(1889年)

 耳を切る事件を起こしたあと、サン・レミ療養所に入る。寝室のほかに絵を描くための画室を与えられた。
 日が差し込むと、画室は明るい黄色で満たされた。

 弟テオへの手紙
 「ああ、僕の目の前に新しい清明期が控えている。ほぼそんな思いもある。」(1889年)

   郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像画(1889/4月)

 本作は、ゴッホがアルル滞在時代に家族ぐるみで付き合いのあった郵便配達員「ジョゼフ・ルーラン」を 描いた肖像画です。ルーランは、ゴッホが黄色い家に引っ越す前に住んでいたカフェの常連客で、オランダ出身の 無名画家であったゴッホに、友人として温かく接してくれた人物です。
 ゴッホは、5人家族(二男二女)であったルーランファミリー全員の肖像画を合計約20点程も描いており、 如何にこのファミリーとゴッホの親交が深かったが伺えます。
 黄色い家の共同生活から、わずか数ヶ月でゴーギャンが去り、ゴッホが精神的に病んで耳を切り落とした後も、 ムーランの友情は変わらなかったそうです。

   アイリス(1889/5月)

 本作は、アルルでの耳きり事件の後、ゴッホがサン・レミの療養所に入所してすぐ描いた作品です。
作中のモチーフは、療養所の庭に咲いていたアヤメ科の花アイリスで、花と葉が複雑に入り組んでいます。 色彩構成も絶妙で、青の花と緑の葉を中心に、黄色、赤茶、オレンジなどがバランス良く散りばめられています。 くっきりとした輪郭線などは、明らかに日本の浮世絵にインスピレーションを受けて描かれています。

 弟テオへの手紙
 「さてまた、希望が持てる段となって、僕が望んでいることがなにか分かるかな。それは君にとっての家族にあたるものが、 僕にとっては自然であり、土くれであり、草、黄色い小麦、農民だということ。」(1889年)

   オリーブ園と太陽 1889年(黄色い空と太陽のあるオリーブ園)

 オリーブは彼が入院した療養所の周囲の畑に植えられている。
 オリーブには葉の裏側が緑みを帯び銀色になっているものがある。この銀色の面に太陽の光や空の色が反射するとき、様々な色調が 生まれる。オリーブの連作には、空をブルー、葉を緑灰色で描いたり、レモンイエローに明るいグリーンを組み合わせたりと 、一つとして同じ色はない。

   星月夜(1889/6月)

 ゴッホの「ひまわり」に次ぐ代表作「星月夜」は、輝く星空の下で、麦畑と糸杉を幻想的に描いた作品です。
 ゴッホは本作を、サン・レミの精神病院に入院していた1889年6月ごろに、部屋の窓から描いたとされています。 村や教会などは、実際にこの方角から見た景色には存在しておらず、実景に創作を組み合わせて、一つの絵画として構成しています。 作中の筆のうねりは、山並みから星空に向かって一層激しくなり、糸杉の存在が、天と地を結びつけている様です。

 精神科医 斎藤環
 「耳霧事件や自殺の衝動性からみて、”てんかんの亜型”ではないかと思う。美しくもいびつな歪曲線は、てんかん発作の直前に現れる ”アウラ”、一瞬の強烈な恍惚・幻視体験を描いているのではないか。サン・レミで描いた”自画像”にも顕著です。この病質は 暗い情念だけでなく、”アルルのラングロワ橋”のような自然に明るさを求める向日性の二面性をもっています。」

   糸杉と二人の女性

 南仏プロヴァンスの風景と当時の糸杉のイメージ
糸杉(サイプレス)は、地中海沿岸地域でよく見られる針葉樹です。天に向かって垂直に伸びるその姿は、 南仏プロヴァンス地方の象徴的な風景の一部となっています。しかし、ヨーロッパでは伝統的に墓地に植えられることが多く、 「死」や「永遠」を連想させる木でもありました。

   糸杉のある麦畑 1889年

 この地サン・レミ・ド・プロヴァンスで、ゴッホのタッチはさらに激しくなり、独特のうねるような形が 現れてくる。ことに糸杉と空にはこのうねりが顕著。
 ゴッホの精神がさらに不安定になったことが要因と指摘されることもありが、ゴッホにとって糸杉は、単なる風景の 一部ではありませんでした。自然の生命力を彼なりに解釈した表現とも考えられる。
  

糸杉が象徴するもの                  説        明
死と再生: ・伝統的な「死」のイメージを踏まえつつ、天に伸びる姿に「再生」や「永遠の生命」を希求して いた可能性。
天への憧れ: ・まっすぐに天を目指す形状は、自身の精神的な渇望や、地上と天界を結ぶ架け橋のような存在と して捉えていたのかもしれません。彼の作品における教会や星空と同様に、精神的な高みへの憧れを象徴している。
生命力と情熱: ・ゴッホは糸杉を、まるで炎が燃え上がるかのように力強い筆致で描きました。これは自然そのものが 持つ荒々しい生命力や、彼自身の内なる情熱、感情の発露と捉えることができます。


   糸杉



   夜のプロヴァンスの田舎道(糸杉と星の見える道)1890年

 ゴッホは糸杉をテーマに作品を沢山描いていますが、本作が一番の傑作と言われる所以。ゴッホ独特の厚みのあるタッチで 色を重ねて描かれていることと、色の描写が実に細かいことです。実際に原画を間近で見てみると驚きます! 意外な色が重ねて塗られており、遠くからみるといろんな色が相まってより立体的に見えるのです。
 南仏プロヴァンス地方のサン=レミ療養所で描かれた本作。精神病の療養のためにこの地で過ごしましたが、ゴッホはそれでも 自分の死が近いことを察していました。本作にもその思いがのせられており、糸杉は死を連想させ、そして黄色のお月さまの上に オレンジがのせられておりよりクッキリとしたお月さまで、こちらも死が近いことを連想させます。
 糸杉の右に細い三日月、左には巨大な星がある。この巨大な星を太陽ととらえ、月と太陽が同時に登場するキリスト教の場面 を表したという説もある。若き日に宗教家を目指したゴッホが、自然の中に神の存在を見ていたと考える研究者は多い。



    

 ***** 厚みのある色重ねの効果 *****
 ゴッホの作品は、厚く塗られた絵具と、うごめくようなタッチが特徴です。彼は同時代の画家アドルフ・モンティセリの 厚く塗られた作品に強く感動し、自分の作品に取り入れました。
 ゴッホは、色彩同様にこの厚塗りこそが、自分の感情を表現するに最高の技法であると考えたのです。晩年には筆を使わずに 直に絵具のチューブからキャンバスに塗りつけていたといいます。
 ゴッホの色彩は、しばしば自然の色とは一致せず、主観的・感情的な象徴性を帯びています。彼の色彩観は、 現実の色を写すのではなく、精神の印象を色で表現するという点で、印象派よりむしろ象徴主義や表現主義の先駆とも 言える性格を帯びています。



  アドルフ・モンティセリ(Adolphe Monticelli, 1824–1886)
  19世紀フランスで活躍した画家であり、 その大胆な色彩と厚塗りの技法で、後のポスト印象派、特にフィンセント・ファン・ゴッホに大きな影響を与えた人物です。

   自画像(1889年8月 サン・レミ療養所

 耳切り事件後、ゴッホは狂人扱いされ、1889年5月8月、精神病者としてサン・レミー療養所に監禁されることになります。 ここで運が良かったのは絵を描くことを許されたことです。
 サン・レミー療養所では全部で7枚の作品を残していますが、そのうち4枚が自画像。最初の自画像は同年8月に描いたもの。 この自画像ではパレットと筆を持った姿が描かれていますが、顔色が悪く頬がこけた顔つきをしており、不安定な精神状態が 感じ取れます。
 療養所に入って間もない頃ですから、精神的に不安定なのは否定できませんが、そのような悪い状態にありながらも パレットと筆をもたせているのは、画家である自分を再認識したかったのかもしれません。

つぎの自画像へ

   自画像(1889年9月 サン・レミ時代)

 ゴッホは生涯でおおよそ40点ほどの自画像を描いています。
 その内で、キャリア最後期のサン・レミ療養所時代に描いた自画像は3作あり、それらは全て 切り落とした耳(左耳)とは逆側から描かれています。
 背景にはうねりがはっきりと見られますが、色彩は明るくなっており、顔にも陰陽が表現されています。 またスーツを着て、上着をはおり、おしゃれに見える。服装の方もしっかりと描かれています。
 サン・レミでのゴッホの精神状態が暗くなったり明るくなったりと不安定だったことが窺われます。 背景や人物のタッチからゴッホの内面に秘めた激しい感情が伝わってくる様です。

1890 シエスタ(1890/1月)(昼:仕事の間の休息)

 本作は、ゴッホが精神病院に入院していた時に描いた、フランスの田園風景をモチーフにした作品です。
 入院中は、外出する事が難しかったため、弟に送ってもらった、複製版画などを元に作品を描いていました。 本作も基本的には、ミレーの「昼休憩」の模写ですが、人物が反転していたり、農夫の足先が開いていたりと、 オリジナルとは、似て非なる作品となっています。何より、ゴッホ独自の色彩と力強いタッチが、本作を全く別の 作品として特徴付けています。
 作中で、昼寝をする二人の前には、2つの鎌が置かれていますが、これは死のイメージを示唆していると言われています。 耳を切り落とし、精神的に病んでいたゴッホが、この時常に死を意識していた事は、想像に難くありません。

   花咲くアーモンドの木の枝(1890/2月)

 本作は、1890年に生まれたゴッホの甥(弟テオの息子)の誕生日祝いとして描かれた作品です。
 テオは、息子をゴッホと同じく「フィンセント」と名付けました。時には、厳しい言葉を浴びせる事もあったテオですが、 心の奥では、兄を深く敬慕していました。
 作中では、やや緑色がかった青空を背景に、アーモンドの木の枝が画面いっぱいに広がっています。本作は、 ゴッホが精神を病んで入院していた時の作品ですが、全体に明るく陽気な雰囲気に仕上がっています。

   オーヴェルの教会(1890/6月)

 ゴッホは、サン・レミの病院を退院後、パリにいた弟テオを訪れてから、オーヴェルへと移動し、本作を描きました。
「オヴェール」は「パリ」の北西にある街で、ゴッホが自らの人生に幕を閉じた場所でもあります。
 ゴッホの晩年の作品は、うねる様な曲線が特徴ですが、この「オヴェールの教会」は、その中でも特にうねりが強い作品だと 言われています。作中の前景が昼なのに対して、後景の窓や空は夜で描かれ、まるで、教会の建物が生き物の様です。作中の 至る所から、ゴッホの精神的不安定さが伝わってきます。
 本作で描かれている教会は、12世紀〜13世紀頃に建造されたもので、今も現役の教会として利用されています。

   医師ガジェの肖像(1890/6月)

 ゴッホが弟の計らいでパリ近郊の「オヴェール」で精神の治療を受けていました。本作は、その時の担当 精神科医「ガシェ医師」を描いた肖像画です。
 ガジェは良き理解者として、ゴッホの最後を看取りました。画面左手側には、医師や治療を暗示す薬草が描かれており、 作中の人物が医者である事を示唆しています。
 ちなみに、ゴッホはこの肖像画を同じ構図でもう1枚描いていますが、これはガジェ医師が本作を欲しがったためだと 言われています。ガジェ医師は、セザンヌやルノワールなど、多くの画家とも親交が深く、美術品コレクター兼画家としても 知られていました。
 本作をはじめ、多くのゴッホ作品は、ガジェ医師の子孫に受け継がれ、後にオルセー美術館に寄贈されました。

   ドービニーの庭(1890/6月)

 本作は、バルビゾン派の画家「シャルル・フランソワ・ドービニー」家の庭を描いた作品です。ドービニーは、 ゴッホが敬愛した画家の1人ですが、本作を手がけた時には既に亡くなっており、邸宅には残された夫人が暮らしていました。
 同時期の作品「カラスのいる麦畑」とは対照的に、明るい色合いで描かれており、強いて死を予感させるものと言えば、 右上にある教会ぐらいです。
 本作には、ほぼ同じ構図と配色で、後に描かれた別バージョン(ひろしま美術館所蔵)が存在し、 そちらはゴッホが自殺する一週間ほど前に描かれたとされている。そこでは、左下の猫は塗りつぶされ、 右下のサインもなくなっているほか、若干配色も異なっている。

   荒れ模様の空の麦畑 1890年

 オーヴェールの町中から坂道を上がると、麦畑が広がる。そこで描いた本作。雲が漂う青い空と黄緑色の大地。手前にはじゃがいもの白い花が咲き、その先には麦畑が広がる。ジャガイモの花に 混じって、赤い絵の具がわずかに塗られているのは畑に自生するポピーの花。右下には腰をまげて畑仕事をする人の 姿も。
 ゴッホ自身が言う「海のように大きな」大地の力が、色彩を通して画面からあふれだしている。その2週間後に命を絶つが 、色彩は尚も清々しく輝く。

   カラスのいる麦畑(1890/7月)

 横長のカンヴァスに、ゴッホの人生の終着地である、オヴェールの広大な麦畑が描かれています。ゴッホが弟に宛てた 手紙の言葉を借りれば《嵐を予感させる空の下の広大な麦畑で、悲しみと極度の孤独を表現した作品》が本作です。
 空は今にも嵐で荒れ狂いそうに描かれ、黒々した雲や烏は死を連想させます。この絵画を仕上げた時点で、ゴッホが 死を決意していたかは不明ですが、完成の翌月(1890年7月)に、彼は自ら銃で命を絶ってしまいます。享年37歳でした。
 これまで本作は、ゴッホの最後の完成作品と考えられていましたが、ほぼ同時期に描かれた「ドービニーの庭(ひろしま美術館所蔵)」を 最後の完成作品とする説もあります。また、遺作と言う意味で言うと、ゴッホが死ぬ直前まで製作していた「木の根と幹」と言う 未完作品も存在しています。

   ゴッホとテオの墓

 1890年7月に死んだ兄フィンセントの後を追うように、翌年1月弟テオが死去。それぞれ異なる地に埋葬された が、のちに並べられた。
 オーヴェル・シュル・オワーズの墓地に埋葬され、鮮やかな緑に囲まれ、寄り添うように並んでいます。
 墓地の入り口を入って一番左の列の中央に位置している。墓地の両脇には「カラスのいる麦畑」などの作品を描いた 実際の麦畑が広がっている。「オーヴェルの教会」に描かれた村の小さな教会もあります。
 弟テオへの手紙
 生涯の終わりには、僕も間違っていたということになるのだろう。それもよかろう。その時には美術のみならず、 ほかのすべても一場の夢に過ぎず、おのれ自身もまるで無であったと覚るだろう。(1888年)