勝ち組

読売新聞オンライン
負けるたびに人気過熱「ハルウララ」に武豊が騎乗した日…29歳のいま、悠々自適の余生は「勝ち組」
 異例の「ウィニングラン」だった。  2004年3月22日、高知競馬場(高知市)に詰めかけた約1万3000人の視線は、一頭の牝馬に注がれていた。 ハルウララ。デビュー以来105連敗を喫しながら、ひたむきに走る姿が人気を集め、この日のレースで、ついにトップジョッキー・武豊騎手(56) =当時35歳=が騎乗した。
 結果は11頭中10着。しかし、ハイライトはレース後に待っていた。手綱を取る武騎手に導かれ、ハルウララがスタンド前をゆっくりと走る。 通常、勝った馬が行うウィニングランに割れんばかりの拍手が送られた。 「なんか夢みたいだ」。場内実況を担当したアナウンサー・橋口浩二さん(58)=同37歳=は胸が熱くなった。ブームの仕掛け人とはいえ、 1年前、ここまでの光景が見られるとは夢にも思わなかった。 「連敗を売りに」…実況アナの賭け  全然勝てない馬がいる。そのことにいち早く気付いたのが、高知競馬場(高知市)で場内実況を担当するアナウンサー・橋口浩二さん(58)だった。 2003年春。ハルウララというかわいらしい名の付いた 牝馬ひんば の連敗数は90に迫っていた。 武豊騎手が騎乗したハルウララ(2004年3月22日、高知競馬場で)  大学時代に地元放送局のDJとして活動していた縁で、1994年、実況の仕事を始めた。競馬の知識は全くなく、だからこそ出走馬についていつも 入念な下調べを行った。直近の成績や血統はもちろん、未勝利の馬もチェックした。もし勝ったら、実況で「何戦目で初勝利」と紹介するためだ。 85、86、87……。連敗数が一つ、また一つと積み重なっていく。成績が振るわない馬から 淘汰とうた されていく世界。橋口さんはひそかに行く末を 案じながらも、この無名の馬に一つの希望を見いだしてもいた。  それは、連敗記録を逆手にとった話題づくりだった。当時の高知競馬は、バブル崩壊後の不況のあおりで深刻な経営難に陥り、2002年度末に80億円 以上の累積赤字を抱えていた。このまま赤字続きなら廃止となる。「生き残るため、ハルウララを売り出そう」と決意した。 03年5月、高知県内の居酒屋。「いつになったら勝つんだ」。橋口さんは、知り合いの高知新聞記者・石井研さん(58)に思わせぶりにそう切り出した。 1998年のデビュー以来、一度も勝てていないのに、「処分」もされない馬がいる。石井さんは「これは記事になる」と直感した。 2003年6月13日の高知新聞夕刊を、88連敗目を喫したハルウララ、処分はしないと誓う調教師、そして懸命に世話する若い 厩務きゅうむ 員の 物語が飾った。「1回ぐらい、勝とうな」の見出し。この記事をきっかけに大手マスコミもこぞって取り上げ、ハルウララは一気に全国区の存在になっていく。 負けを重ねるたびに人気は過熱し、全国のファンが高知に殺到した。 ハルウララは1996年2月27日、北海道新ひだか町(旧三石町)の「信田牧場」で生まれた。生産者の信田義久さん(80)=写真=はその将来に あまり期待していなかった。 母親は体が小さく、レースで実績を残せなかったからだ。 実際、生まれてきた1頭は「双子かと思うほど体が小さかった」。臆病で気が小さく、そのくせ気性が荒い。「こいつは走らないな」。買い手がつかず、 最後は知り合いのつてをたどり、高知競馬に託した。  見立てどおりハルウララは勝てなかった。が、「時代」がその人気を押し上げた。当時は長引く不況とデフレの影響で、企業の倒産やリストラが 相次いでいた。そんな中で、結果が残せなくても諦めず走る小柄な馬はいつしか「負け組の星」と呼ばれるようになり、その姿に多くの日本人が自らの 境遇を重ね合わせた。「日本人に人気なのは源義経のような存在。だから火がついた」。判官びいきの気質がブームを引き起こしたと橋口さんは見ていた。 2004年3月22日、この時まででJRA通算2323勝を誇る武豊騎手(56)が騎乗したレース。「最弱の馬が最強の騎手と組んで初勝利を目指す」 というわかりやすい構図に、熱狂はついに最高潮に達した。単勝1・8倍の圧倒的一番人気だ。  実況席に腰を下ろした橋口さんの目に、初めて見る光景が飛び込んでくる。スタンドは見渡す限り、人の頭、頭、頭。「GIレースのようだ」。 その日の主役がレース場に姿を現すと、地鳴りのような歓声がわき上がった。  ガシャンと音を立てて、ゲートが開く。ある人は祈るようにその走りを見つめ、ある人は「諦めないで」と手を合わせた。期待を一身に背負った ハルウララはしかし、スタートから出遅れ、最後まで伸びを欠いた。  「ありがとう」「ありがとう、ウララ~!」。106敗目を喫した馬にスタンドから感謝の言葉が降り注いだ。勇気をくれてありがとう――。橋口さんは、 ファン一人ひとりの素直な思いに初めて触れた気がした。
その裏で、関係者たちには葛藤もあった。 高知競馬の広報担当だった吉田昌史さん(58)=写真=。経営難を何とか打開しようと、マスコミへの売り込みなどできることは何でもやった。 だが内心は、勝つ馬を差し置いて負けた馬を売り出すことは「競馬界の倫理に反する」と感じていた。 「もう来るのが嫌になった」。高知競馬の経理などを担当していた松本太一さん(54)は、常連のファンがそう不満をこぼすのを何度も耳にした。 マナーを知らない競馬初心者たちで場内は混乱。大半がハルウララの100円の単勝馬券を何枚も買っていくから、販売コストもばかにならなかった。
 橋口さんもまた、武騎手への申し訳なさを感じていた。あのレース前、武騎手が自身のホームページに「異常な騒がれ方。GIレースを勝った馬 よりも注目を集めるのは理解しがたい」とつづっていたのを知っていた。ブームの仕掛け人として、武騎手を騒ぎに巻き込んでしまったという負い目があった。
 ブームはいずれ去る。ハルウララは04年8月に113連敗目を喫した後、当時の馬主の意向で長い休養に入った。レース復帰に向けた調整が つかないまま、06年秋、競走馬としての登録を抹消された。その後は表舞台から姿を消し、メディアに取り上げられることもなくなった。
「馬を預けたい」。10年、千葉県御宿町にある預託牧場「マーサファーム」代表の宮原優子さん(42)のもとに、一人の女性が突然訪ねてきた。 聞き覚えのある名前。インターネットで調べると、ハルウララの馬主とわかった。
 宮原さんは動物分野の専門学校を卒業後、茨城県の観光牧場で約2年間働いた。06年、「馬と気軽にふれあえる牧場をつくりたい」と、 知人とともに開業したのがマーサファームだった。
引退後、栃木県や北海道の牧場を転々としたハルウララ。12年12月、初めて牧場に来た時は生来の臆病さもあって人間との距離を縮めるには時間が かかるように思われた。だが、その半年後、宮原さんが馬房の掃除をしていると、視線を感じた。ぱっと振り向くと、こっちを見ているハルウララと目 が合った。「かわいいところ、あるじゃん」。距離は縮まりつつあった。
馬主からの月8万円ほどの預託料支払いが滞るようになったのは、ちょうどこの頃だ。預託牧場は馬主から馬を預かり、預託料でエサ代やけがの 治療費をまかなう。預託料が支払われなければ、馬の面倒はみられない。宮原さんは決断を迫られた。
 あのかわいい視線が脳裏をよぎる。それに――。「人間の都合で人気馬に仕立て上げられたのがウララ。そんな彼女をまた人間の都合で手放して しまうのか」。宮原さんは腹をくくった。
14年、「春うららの会」を設立。ネットを通じて1口3000円で支援を募ると、「元気でよかった」と泣きながら電話してくる人もいた。 3か月で80人の会員が集まり、その会費で預託にかかる費用をまかなえるようになった。
 東京都足立区の会社員田中恵子さん(55)は、現在約50人いる会員の一人。幼い頃に筋肉が 萎縮 いしゅく する病気を発症し、常に ハンデがつきまとった。トイレや着替えも母親の介助が必要で、移動は車椅子。勤め先でも昇進できず、「自分は負け組」と感じていた。それだけに、 負けてもめげずに走る馬に「希望」を見た。「彼女を支えたいから、私も頑張る」。在宅で保険会社のオペレーターの仕事を続ける。
 勝つことが存在意義ともいえる競馬界にあって、負けた馬がたたえられる。そのことへの賛否があったのは事実でも、橋口さんはブームを仕掛けた ことを後悔していない。「高知競馬が生き残ることがすべてで、僕はそのために行動した。そこを批判するのは、『黙って潰れてください』と同義だから」。 すべては高知競馬あってこそなのだ。  ただ、唯一心にひっかかっていたのは武騎手への負い目。それが消えたのは、あのレースから約10年後のことだった。
 「豊さん、あの時は何もメリットがないのに乗っていただいて、本当にありがとうございました」。高知競馬のイベントで再会した武騎手に、 おわびも込めてそう伝えた。すると、武騎手は急に居住まいを正し、「僕が乗ることで競馬に興味がない人たちが競馬に目を向けた。これは僕にとっても すごくありがたいことなんです」と言ってくれた。
ハルウララが去った後の高知競馬は再び存亡の危機に直面したが、ブームの効果で生まれた剰余金などで急場をしのぐと、09年にナイター開催に 打って出た。すると、馬券のネット販売が普及したこともあって収支は好転。昨年度は約999億円の売上高を記録し、2年連続で過去最高を更新した。
 ハルウララは今年2月で29歳になった。人間なら80歳を優に超えるとされる。朝ごはんを食べて、ひなたぼっこして、お昼を食べたら昼寝して。 マーサファームで過ごす余生は悠々自適そのものだ。勝利実績のある馬も、引退後は乗馬や繁殖馬などに転じることが多く、ハルウララのような余生を 送るケースは一部にすぎない。「ウララはある意味、勝ち組ですよ」。そう笑う宮原さんの横を、ハルウララがのんびりと歩いていた。

  野田 快 記者 のだ・かい  2022年入社。函館支局、北海道支社で警察取材などを担当。大学時代に雑誌でハルウララを知り、 生誕の地・北海道が自分の初任地になって不思議な縁を感じた。競馬では強い馬より名前のユニークな馬が好き。25歳。